2009/02/24

第6条 救い

 12箇条の信仰告白について・・・第6条 救い

第6条は、救いの教理が告白されています。多くの宗教では、人間の行いが重視されますが、聖書では、「神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに・・・義と認められる」ローマ3:24と示します。人間の業ではなく、神の恵みの業のみが人を救うのです。また新生もただ、キリストの復活に基づき注がれる聖霊によります。私たちの救いの徹頭徹尾が、キリストの御業に基づくということを告白しているのです。
讃美歌271番の歌詞に「いさおなき われを 血をもて贖い」とありますが、「いさおなし」とは「功なし」で「良い業も、功績も、何もない私」ということです。これが私たちの救いの原点であるということを、良く確認することが大切です。信仰生活の初めに、「こんな愚かな自分が、はたして救われる者としてふさわしいのか」と悩むことがありますが、神は、ふさわしくない者の救い主としてキリストを与えられたことを覚える必要があります。また信仰生活のベテランになって、「自分の業が多いから、神に用いられ平安な生活を送っている」と錯覚する事にも気を付けなければありません。すべてキリストの業に基づく祝福なのです。
「すべての人を罪の下に閉じ込め」「イエス・キリストに対する信仰によって」(ガラテヤ3:22)とありますが、神は、キリストの御業を与え、聖霊の恵みを与えることで、私たちの救いの全体を導き、ただ神のみがたたえられるようにされたのです。神にのみ、栄光あれ。アーメン。

第5条 人間

12箇条の信仰告白について・・・第5条 人間

第5条は、人間についての信仰告白です。まず「人間が神のかたちにつくられ、罪の中に堕落したために失われているもの」とあります。「神のかたちにつくられ」とは、神と同じような人格を持ち、神と交わりの中で生きる存在として創造されたということです。ところが、堕落して、神と断絶し、敵対状態となりました。これが罪の状態です。「失われているもの」という表現は深刻です。全的堕落という言葉がありますが、もはや自分の力でも、他の被造物によっても回復されない完全な堕落に陥ったのです。「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(ローマ7:24)は、全的堕落を認識した罪人の叫びです。
「また人間は聖霊による新生を通じてのみ救いと霊的生命を与えられることを信じる。」とあります。福音自由教会では、「聖霊による新生」を強調しています。次の6条でもこの言葉はくり返されます。もちろん救いはキリストを信じる信仰によりますが、その救いはただ形式的であってはならないのです。それは今も生きる神による救いです。聖霊は神から発し、キリストの生命と御業を今の時代に反映させる方です。キリストを信じるときに、聖霊は人をキリストの内に包含し、キリストと共に死に至らせ、キリストと共に新生させるのです。(参照:ガラテヤ2:20、ローマ6:4~5)
天国において、信仰者は永遠の生命と神の愛に完全に満たされるのですが、しかし今の時代においても、その前味として、聖霊による新生と永遠の生命と神の愛の中に生きることが許されているのです。この点を、私たちは明確に告白しているのです。

第4条 聖霊

 12箇条の信仰告白について・・・第4条 聖霊

第4条は、「聖霊のみわざが主イエス・キリストに栄光を帰し・・・」とあります。私たちは、聖霊を信じています。聖霊は、父の霊/子の霊で、三位一体の第3番目の神です。わたしは、しばしば、聖霊について、次のように説明しています。「父の顔と瓜2つであるのが子なるキリストの顔です。父の顔、子の顔をそのまま映し出すのが聖霊の顔です。」と。別個の人格を持ちながら、全く同じ顔を持つのが父、子、聖霊の神です。
聖霊はキリストを信じる者に与えられます。そして心に住み、毎日の生活において臨在します。また何よりも教会の礼拝と交わりに臨在します。キリストは「もうひとりの助け主」(ヨハネ14:16)を与えると約束されたとおり、私たちの地上での信仰生活において、キリストのみわざをなします。「罪を認めさせ、」「新生させ」「導き、教え、力づける」のです。つまり、聖霊は、現代において、父と子の働きをそのまま伝えます。
このように、現在において、聖霊の働きは大変、重要です。しかし、色々な誤った理解も氾濫しています。たとえば、聖霊を持つ者は情熱的に異言を語る、聖霊を持つ者は奇跡的体験をする。特別な夢、幻を見るなどです。私は、そのような考えに従って、翻弄された人、混乱した教会を知っています。聖霊について、正しい理解が大切であることを痛感します。聖霊のことは、聖霊の言葉である聖書に聞くことが大切です。聖書によると、聖霊のしるしは、イエスを主と告白すること(1コリ12:3)、また「アバ。父よ。」(ガラ4:6)と呼ぶ祈りです。聖霊の本質は、私たちを神の子とする霊だからです。私たちの生活には、色々な試練や困難が起こってくることがあります。その時に、目先のことを振り回されず、静まって、聖霊によって祈ることが大切です。しばしば、悪魔は、私たちの弱さをつついて救いの確信を揺るがしますが、どのような時にも、聖霊の臨在と内住を信じて、神の子とされている確信と希望を持って祈ることが大切です。信仰と聖霊の祈りの中で、私たちは、父と子なる神との顔と顔を合わせるような交わりに導かれるのです。

第3条 イエス・キリストについて その2

 12箇条の信仰告白について・・・第3条 イエス・キリストについて/後半
今回は、福音自由教会の12箇条、第3条イエス・キリストの後半部「贖罪、復活、昇天、執成(とりなし)」について学びます。
「・・・又聖書に示すとおり、十字架上にわたしたちの罪の犠牲として死なれたことを信じる。そして主は死より肉体を持って復活し、天にのぼり、今は高きところにいます大能者の右に座している大祭司及び助け主であることを信じる。」
キリストの死と復活は、キリスト教信仰の中軸です。私たちは、この出来事が歴史の中で起こった事を、そのまま信じます。ある人々は、それはフィクションで、心の中で感動すればよしと主張する場合があります。しかし、それでは私たちの罪も残るし、私たちの復活の希望も空しくなります。キリストの現実の死と復活によって、私たちは罪の赦しと強い復活の希望を持つことができるのです。
キリストの昇天と執成についてローマ8: 34に次のようにあります。「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」ここで明らかにされていることは、キリストが昇天して神の右の座にあり、そこでの執り成しにより、贖いの効力が発揮されると言うことです。
また「聖書が示すとおり」とありました。ここに福音自由教会の信仰告白の特徴が出ています。私たちは教会の教理としてキリストの贖いと復活等を信じるというだけではなく、さらに大切なことは、聖書が示しているからです。私たちの信仰は、いつでも聖書を源泉としなければなりません。ですから、私たちの信仰は単に、この信仰告白を覚えてよしとされるべきではなく、常に聖書に向かい、聖書によって養われるべきです。
ルカ24:27「イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。」とあります。キリストによって聖書を解き明かされて、弟子たちの霊の目は、ようやく開かれたのです。私たちの信仰も彼らと同じです。

第3条 イエス・キリストについて_その1

12箇条の信仰告白について・・・第3条 イエス・キリストについて
私たちは、自分の信仰がどのような信仰なのかについて、大まかなアウトラインを描いている必要があります。それが福音自由教会の12箇条信仰告白です。第3条は、イエス・キリストについてです。
「イエス・キリストは聖霊によってみごもり、処女マリヤより誕生された真の神であり、また真の人であること、又聖書に示すとおり、十字架上にわたしたちの罪の犠牲として死なれたことを信じる。そして主は死より肉体を持って復活し、天にのぼり、今は高きところにいます大能者の右に座している大祭司及び助け主であることを信じる」
信徒の手引きでは、この告白を5つのポイントにまとめています。それは、①受肉、②贖罪、③復活、④昇天、⑤執成(とりなし)です。今回は特に①受肉について述べたいと思います。
イエス・キリストが聖霊によってマリヤから生まれたということを受肉といいます。イエスの中で、永遠の神と有限な人間が、どのように併存できたか、私たちの頭でいくら考えても分かりません。それはまさに奇跡です。
しかしながら、ここに、私たちは神の本質を目撃できます。私たちは、神について、遠くの存在、恐れるべき存在として考えがちですが、その本性は、それは測り知れない「恵みとまこと」(ヨハネ1:14)であり、「愛」(Ⅰヨハネ4:9)であるということです。この奇跡はクリスマスに起こりましたが、その誕生を目撃した者たちは赤子イエスに永遠の聖さを見いだしました。彼は人として33年の生涯を送り、最後に十字架で死にましたが、その姿もまた、百人隊長をして、「この方はまことに神の子であった」と感嘆させました。徹底して、人として生涯が、かえって神としての栄光を現しました。「わたしを見た者は、父を見たのです」ヨハネ14:9
さらにまた、この奇跡は、神と人との和解と贖罪に必須でした。神と人の間には、罪ゆえに、断絶/敵対がありました。その断絶/敵対を埋めるために、イエス・キリストは、仲介者/贖罪者となったのです。神であると同時に、人である方だけが、この役割を担うことが可能です。このようにして、私たちはキリストゆえに義/神の子とされ、「キリストの貧しさによって富む者」Ⅱコリント8:9となったのです。

第2条 神について

12箇条の信仰告白について・・・第2条 神について
私たちは、自分の信仰がどのような信仰なのかについて、大まかなアウトラインを描いている必要があります。それが福音自由教会の12箇条信仰告白です。第2条は、神についてです。
「万物の創造主であり、無限に完全であり、父、子、聖霊の三人格において永遠に存在される唯一の神を信じる。」
私たちの神が「天と地の創造主」ということは、聖書の冒頭の言葉であり、世々の信仰者たちが、異教徒に対して告白していたことです。私たちもまた、この時代、この社会で、同じように告白しましょう。この時代は、人間中心の時代で、人間の理性と努力で平和を作ることができるという思想が主流を占めます。ところが、現実は、人間の罪から、多くの危機が起こっています。また私たちの日本の社会は、八百万の神々を崇拝する社会です。あらゆるものが神となり仏となり、多くの迷信とタブー、それに伴う祭りと慣習が存在します。しかし、そこでの価値観は相矛盾しており、このグローバルな時代、宇宙の時代においては、いささか矛盾が多すぎます。また、いいかげんな信仰心は、いいかげんな道徳観となり、道徳の退廃を生んでいます。このような時代において、私たちは天地の創造者として、私たちの神を告白することは大切なことです。
「父、子、聖霊の三人格において永遠に存在される唯一の神」とは、いわゆる「三位一体の神」と言うことです。これは理屈云々よりも、聖書がそのように示している事柄です。また、そのような神の存在のあり方から、「神は愛です」という信仰を深めることができます。ただ一人だけの神に愛があるはずがなく、複数のバラバラの神なら対立が生じます。しかし、三位一体において存在する人(神)格を持つ方であるから、神の内に限りない愛が宿るのです。その愛によって、世界と人間が創造されたのです。

第1条 聖書

12箇条の信仰告白について・・・第1条
私たち自分が何者なのかということ、つまりアイデンティティーを保って生きます。そうした姿勢で生きることで自分らしく生き、また自分自身を成長させる力となるものです。そのことは、教会についても言えることで、教会も自分自身のアイデンティティーを持つことで、成長を持続することができるのです。そこでしばらく日本福音自由教会12箇条について連載したいと思います。12箇条の第1条は聖書について書かれています。
「旧新約聖書を原典において何ら誤りなき、霊感された神の言(ことば)であり、人間の救いについて神のみこころを完全に啓示し、すべてのキリスト者の信仰と生活の神的、究極の権威であることを信じる。」
これは12箇条全体の土台であり、私たちの信仰の前提となっています。19世紀、20世紀初頭、北欧・米国において、福音自由教会のもとになる群れが形成されていった時に、他方では、聖書が神の言葉であることを否定する神学が興っていました。自由主義神学といいます。このような風潮に対して、福音自由の父祖たちは、否、と明確に唱えました。聖書が神の言葉であることを否定した時に、そもそも、すべての救いの業と教理が、否定されてしまうからです。さらにまた、彼らの聖書の言葉を信じた時の救いの体験から、聖書の言葉が神の言葉であることは、否定できない真理でした。また、「聖書は神の言葉」という信仰を持って生活していく時に、事実、祝福された生活、人間関係、社会を形成することができたのです。
「原典において何ら誤りなき」とあります。原典とは、初めに筆記された聖書ということです。それは、実際には失われていますが、現代では99.9パーセント復元されています。日本語の聖書は、その翻訳です。翻訳といっても、決して力がないものではなく、使徒の働き2章のペンテコステの出来事の時に、人々が他国の言葉で「神の大きなみわざを語(った)」ように、聖書は初めから翻訳されるべく定められていました。